石原慎太郎の死後出版から

石原慎太郎の死後出版から 行き詰った人生をどうしようもない。この気持ちが自分だけではないようだ、ということを石原慎太郎の「『私』という男の生涯」という死後出版から感じた。 家内が買っていて、ちゃんと読んだのか、捨ててくれという廃棄書類の中に…

現代アートの未来

「現代アートの未来」というタイトルだが、事情があって、少し前置きを。 まず、真剣な論考だと思っても、どこに、誰に語りかけていいのか判らない場合が多い。これが大学教授だったりすれば、少しは違うのだろうか。 古い原稿を整理していたら2021年1月、…

この世に残すとはどういうことか

社会的には大きく活躍した岳父が、ある時「人生は無意味だ」と言った。 実際に自分の耳で聞いたのではなく、家内の伝言だったように思うが、記憶は確かではない。その気持ちは今の自分に繋がっている。 歴史に何か残したいとはだれでも思うだろうが、常識は…

鼎談「ニッポンのデザイン」

最近、(公社)発明協会の出している機関誌「発明」6月号で、同協会副会長の岩井良行氏、(公財)日本デザイン振興会理事長の深野弘行氏と3人で話す機会に恵まれた。 タイトルは「日本のデザイン」で、かなり言いたいことを言わせてもらった。 7pあり、PD…

「ミニマル個人から見る人類史」というのはどうか

「ミニマル個人から見る人類史」というのはどうか 最近、コロナ禍もあり、今が時代の大変革期にある、とはしばし言われている。 それは事実だろう。しかも、背景も考えると歴史的な変換時点にあると言ってもおかしくないようにさえ思う。それは、ネット革命…

「ミニマル個人から見る人類史」というのはどうか

「ミニマル個人から見る人類史」というのはどうか 最近、コロナ禍もあり、今が時代の大変革期にある、とはしばし言われている。 それは事実だろう。しかも、背景も考えると歴史的な変換時点にあると言ってもおかしくないようにさえ思う。それは、ネット革命…

「ミニマル個人から見る人類史」というのはどうか

「ミニマル個人から見る人類史」というのはどうか 最近、コロナ禍もあり、今が時代の大変革期にある、とはしばし言われている。 それは事実だろう。しかも、背景も考えると歴史的な変換時点にあると言ってもおかしくないようにさえ思う。それは、ネット革命…

「磯崎新さんを悼む」新聞記事への感想

「磯崎新さんを悼む」藤森照信氏(日経新聞文化欄記事(2023/01/06)へのコメント この日の「文化」欄にタイトルのような記事があった。藤森氏とは面識がなく、コピーは記事担当者不明のまま新聞社に送った。藤森氏に届いたかどうかは不明。敢えてその感想を…

100年は見込んで、今を行動すべき 

JIDA 70周年記念出版応募原稿転載20221216 (作成20221112) 100年は見込んで、今を行動すべき ―「表現するデザイン行為」の真の社会認知を求めて― 大倉冨美雄 一人で何か出来るのか? デザインは社会的な行為であり、個人で出来る事には限りがある。では協…

ミラノにいた年月

このところの外国為替市場の円相場が144円まで下がったという新聞記事にあった年代別の高低相場表を見ていたら、あの365円時代に渡米したころを思い出し、作成している個人データをみてみたら1970年からだった。(新聞年表では85年で250円、88年辺りで一挙に…

ミラノにいた年月

このところの外国為替市場の円相場が144円まで下がったという経済事情の話題が大きいようだ。 つい、新聞記事にあった年代別の高低相場表を見ていたら、あの365円時代に渡米したころを思い出した。そこで、作成している個人データを見てみたら1970年からだっ…

現代は作家と理論家の個人共有は難しい 20220804

時代が余りにも急激に変化しつつある。 一方、伸びたと言っても個人の生命は100年に届くかかどうか。 技術やルールの判っている分野では、個人の修練を加えて、時代を切り開くことも可能だろうが、知識の積み上げと再評価、それとは別の表現技術との統合に向…

多知能力の総合化の時代へ

—感性だけで育った逸材をどう救うか―20220429 明治維新から3年後(1871)に岩倉具視を団長に107人が欧米視察に出かけ、約2年掛けている。大久保が仕組んだ「旅団」だったのだが、その心情を察するほど、よく実行したと思わずにはいられない。 これがあったか…

はてなダイアリーとの共有

すでにどこかで述べたが、このブログとダイアリーの使い分けが解らない。 このため、両方に時々の思いを書いているが明確な区別はない。もともとはてなブログのシステム変更を求められた際に、修正したら、この二つになったのだ。 いずれにしても、この2つ…

はてなダイアリーとの共有

すでにどこかで述べたが、このブログとダイアリーの使い分けが解らない。 このため、両方に時々の思いを書いているが明確な区別はない。もともとはてなブログのシステム変更を求められた際に、修正したら、この二つになったのだ。 いずれにしても、この2つ…

「創造」とは言え、ゴミの生産に寄与する人生でないために

久し振りに、考えを書き連ねてみた。 まずは、香山壽夫のドローイング展を見ての印象から(20211024~27~11/01) 「創造」とは言え、ゴミの生産に寄与する人生でないために —―長たらしい話だが、自分の考えが現代史に関わり、それを簡略に集大成したものと…

初めて自宅を「作品」に

自宅を「作品」として取り上げることは意識していたが、どこにどう発表するのか見当もつかず、25年もの間、放置してきた。つまり、どこにも公開されていない。 この度、建築家協会(関東甲信越支部)で、新作を問わず作品を募集、選定するというので出して…

現代アートの未来

1月5日の朝日新聞夕刊に、最近、東京の森美術館館長となった片岡真実さんを訪ねて聞く、という記事があり、それへの感想を送ったので転載する。 新聞記事のコピーは載せないが、感想でほぼわかると思う。 朝日新聞東京本社 文化くらし報道部・美術ご担当者…

「未来への大分岐」

最近は、コロナ禍もあって、歴史の転換点に関わる情報が少なくない。関心ある問題の核の一つは、昭和、平成史における日本人の行動にある。 1970年代の「一億総中流」という言葉と認識の流布は、その後の格差化問題や、就労への考え方などを深めず、むしろ隠…

映画「楊暉楼」について

記録に残しておきたかったことがある。 映画「楊暉楼」を知っている人は沢山いるだろうか。 去る12月11日のBS日テレで、夕方の6時から9時まで放映していたのを偶然、途中から見て引き込まれた。宮尾登美子原作、五社英雄監督の1983年東映・俳優座映画であ…

コロナ禍で考える建築家の祖型

「最近の想い」として、今年の5月1日に、港地域会(日本建築家協会)のメンバーに送っていた原稿を、多少修正して転載します。 H,リードが教えた「芸術の草の根」 我々は本業の設計に関わるのは当然として、その上で一層のコネの広がりとか、事業システムの…

「建築家」に問う本質問題

オンラインで議論し始めているが、なかなか面白い。 でも、どうも自分の意見を時間を気にせず、堂々と述べるのは気が引ける。というのも、僕の考えが専門業務に追われて生活している者には、現実問題から浮遊している、と受け取られているに違いないと感じて…