「建築家」に問う本質問題

オンラインで議論し始めているが、なかなか面白い。

でも、どうも自分の意見を時間を気にせず、堂々と述べるのは気が引ける。というのも、僕の考えが専門業務に追われて生活している者には、現実問題から浮遊している、と受け取られているに違いないと感じているからだ。

そういう意識で建築家の集まるオンライン会議では語れなかった想いを、後から参加者に配信する羽目になった。少々長いが、それを転載しておく。

 

 

「JIA建築大賞」に潜む背景     

JIA港地域会次回テーマ担当: 大倉冨美雄 20200904

 

次回テーマ「デザイン新時代へ」のために、「モノと空間を支える身体」などを考え始めたら、どんどん離れ、以外にも過日のテレワークでの話題にも近づいてしまいました。それはそれで重要なので、タイトルをそのようにし、文章体にして以下に思ったことをメモします。

 

モノや空間を技術として見ていくと、どんどん科学になる。

科学は客体的な真理を求める一方、その実験などの証明や公知は、伝達機能としての数字や言語に頼ってきた。それを行うのが脳内判断であろう。

ところが人間は脳内で判断するにしても、数字や言語でも説明出来ない部分がある。感性の部分である。

近代以降の科学の発展は、視覚を中心とした身体感覚を軽視するようになってきた大きな理由になりそうである。科学の発展が、見えるものや感ずるものを信じるより、脳内で考える理性、或いは論理性を社会の主軸にするようになってきたと言えよう。

こうして社会を法的規制化に向かわせ、感性を蹂躙するようになってきた。

この軽視された身体感覚を意識しているからこそ建築家なのであるとすれば、その現状に危機感を持っているのは当然と言えるだろう。

この「現状を知っている」と自認する建築家が、この科学的理性と感性の両方を統合出来る人として、自認すると共に、社会の公認を訴えてきたのではないだろうか。

しかし理性の頂点に立つ者と、感性の頂点に立つ者が同一人物であるということは、両者がある意味で対立概念であることからもほとんど考えられない。

どちらもある程度の次元でいい、特に時代の要求としては理性の方がしっかりしていればいい、或いは「『それを知っている』ということでいい」として、「両方を判断できる」と思っているのが実情ではないか。両者の統合は、感じられる限り美しいが、見方によれば社会評価における曖昧性を助長させ、又、自己弁護に使われているとも言えないだろうか。

この状況の周辺に、組織論や経営論、環境問題がまといつくが、これらは科学をベースにした近代経済学の発展の成果と課題であり、これらを建築家も「知っている」分野として、設計思考に組み込んできたと言えよう。そしてこの分野なら、比較的明確に社会評価の対象になるのである。しかしこちらには、その分野を研究している専門家が山ほどいる。

実際の設計行為では、我々は全てがディテールから成り立っていると思い、コスト、日程、法規、説得以上にこだわることが生じ、あれかこれかと思い悩む。しかしこの時間は見えた結果しか相手にされず、その過程の膨大な迷いの時間は評価の対象にならない。一方、科学性と経済効率を優先させる、解りやすいコスト、日程、法規などへの効果的な対処は大きく評価され、仕事したことが認められる。こんな偏向を放っておいていいのだろうか、という気になるのである。

自称建築家は、「どちらも重要」をいいことに、社会的に解りやすい方にスライド・シフトしていきやすいのではないか。とは言え、日本の現状を考えると、解りやすい方で戦っても「いい仕事は出来るはず」と思わざるを得ない状況が若者に生じていても不思議ではない。

「どちらにも解りやすい」ぎりぎりが、構造の新提案、空間機能の新提案、設計プロセスの改革である、ということだろうか。

もちろん結果としての空間造形の美ということはあるが、最早、日本では問題外なのでは…。

 

 

秋の余談

ここまでは、過日のオンライン会議に微妙に関わることだが、ここからちょっと初秋の余談を。

今夜テレビで偶然、高野山空海の話を聞いていたら、解説者が「根本大塔を設計したのも空海だと言われている」と言った。ちょうど10年前にここを訪ねている。

実際に指示はしたかもしれないが、設計したという言い方には、大工は棟梁にしろ、個人は表に出てこないという認識が当時からあったということを当然と考えていることが判る。空海でも設計できるのだ。

宗教家や将軍でもなければ、創造する個人という概念は無かった、という歴史の流れが判る。それでいながら金剛峯寺の板戸に描かれた襖絵の作者はしっかりと表記されている。

話がでかすぎる、あるいは他次元の話だと言われるかもしれないが、日本には建築に関して創造する個人という概念は、明治以降、実際にはヨーロッパから学んだ者が主張し始めただけのことで、建築や都市における科学と芸術の統合などという抽象概念は、今でも国民に根付いていないのは明らかだ。もちろんヨーロッパでも、ルネッサンス以前は同じことだったのだけれど。

個人能力と市場要求の突合せ、その個人を活かした社会認識化には超高度の判断と政治能力を必要とする。

この次元を知った上でJIA活動もしなければ、主体性は失われ、官僚うけの手続き活動にしかならないのではないか。