個展の開催なんて意味がなくなった、と思わないだろうか。
既に、近似の事は何度も書いた記憶があるが、個人的に行き詰っている課題がある。
最近、ある企画展の公募があり応募したが落選。提案テーマは「マルチ・デザイン・アトランダム」だった。
この時から、我々のすべき企画展や個展とはどんなものか。一体、やる意味があるのか、悩み始めている。
ところで、11月1日の日経新聞記事で、「『1日240時間』とリキッド消費」という編集委員(中村直文氏)の記事に出会い、何のことやら判らなかったが、眺め読みし始めたら、その意味が伝わってきた。
『1日240時間』という用語はもちろん、「リキッド消費」という言葉に新鮮な共感を抱いた。
ちょっと、自己流の理解で紹介。
まず示されたのは時間の短縮。ラジオは5000万人に普及するのに38年、テレビが13年、インターネットはたったの4年。モノも制度もあっという間に「過去」になり、「現在が縮んでいる」と。そのことが、時間は10倍になっている、となる。
具体的にどういう変化かというと、所有しない(レンタル商品など)、所属に固執しない(自己流儀、転職の気軽さなど)、瞬時を楽しみ、情報で判断する(ファーストフード、SNS情報、興味が複数にわたる「小分け」型などへ)、それらを支える「脱物質化」だとの事。
「リキッド」は文字通り「液体、流体」の事で、「ソリッド」の対照語として「英国で2017年に提唱された概念」で、「ソリッド」がモノづくり社会を指し、「リキッド」が流動化する環境、社会になぞれられ生まれたと言う。これに「消費」という言葉を付けて、経済産業の視点からの消費社会を表しているようだ。
この事で何が効いたかと思ったのは、建築もこの概念に飲み込まれているのではないか、と思えたから。今後、マルチで建築を語る時、この概念を無視してはいけない、という想いが生まれた。
もちろん、この新聞記事では建築の事などは意識していない様だが、さて我々はどうだろうか。長く使う、環境にやさしい住宅、と意識していれば、気にしなくていいのだろうか。気楽に住み替えはもちろん、簡単に解体出来て転用や移動できるとか、住み手の都合で軽くプラン変更できるとか。住宅型トレーラーとか、住宅型テントとかが跋扈する未来を意識しないでいいのか。
それはともかく、僕自身が異端なので、普通の建築家と視点、論点、関心ごとが違うのかもしれないとも思えるが。過日、知人から電話を貰い、話しているうちに、違和感が減少してきた。
自分がやってきたことは何だったのだろう? 大手企業との格差などの経済問題はさておいて、日本の建築法規体制問題などに取りつかれてきて、この疑問が払拭できないのは、どんどん遅れをとる「ソリッド消費」社会の制度に振り回されてきたからではないか。自分も「ソリッド消費」社会に居ながら、「リキッド消費」社会を泳いで来たのかも、と。
創るものは安らかに心地良く、一方、時代に対応するには「リキッド消費」に対応を、とすればいいのか。
静かに頼まれる住宅を造っていればいい、というなら問題ないのかも。
そうではなく、この社会に振り回されたなら、そこに理由があったはずではないか?、この社会で必死にやって来た意味は何だったのか?、どうしてそれが社会化出来ないのか、という訳だ。
「リキッド消費」社会を容認するスタンスで、己が行為が興味の拡散する「小分け」型で良ければ、自分のやってきたことを、その論理でまとめることも意味ありかも。
これは企画展のようなことをやろうとするなら、大きな判断になりそうだ。
個人の創造性を担保に、時代の変化に沿った表現行為は、必ずしも絶対的な創造行為でなくとも、現代に合った表現行為として評価されるべきではないか、と。
とするなら、ネット情報にも出来ていない表現を、誰に向かって、どのように見て貰おうとするのか。仲間内だけでは意味がないだろうし…。