出版塾体験

最近、ある出版塾に参加し、商業出版という分野の姿について、かなり学んだ。

 

「売れる本」の扱いというのは、多くの人が本を読まなくなったと言われる今の時代、ただ事ではない。

学んだのは、何が言いたいのかはっきりしている事。それが現在の社会に求められている事。実務例、具体例などで示されていること、などだ。

「デザイン」という概念そのものが抽象的であるため、普通には、こういう路線には向いていないというのが体感された。

 

とは言え、出来ることを纏めて、この世に送ることは、もはや「止められない願い」になってしまった。

学びからの考察を込めて、これからの葛藤を経て、わかりやすい書が出せればいいな、願っている。

個展の価値と変革/創造性を担保に考える:リキッド消費社会に向き合う

 

個展の開催なんて意味がなくなった、と思わないだろうか。

 

既に、近似の事は何度も書いた記憶があるが、個人的に行き詰っている課題がある。

 

最近、ある企画展の公募があり応募したが落選。提案テーマは「マルチ・デザイン・アトランダム」だった。

この時から、我々のすべき企画展や個展とはどんなものか。一体、やる意味があるのか、悩み始めている。

 

ところで、11月1日の日経新聞記事で、「『1日240時間』とリキッド消費」という編集委員(中村直文氏)の記事に出会い、何のことやら判らなかったが、眺め読みし始めたら、その意味が伝わってきた。

『1日240時間』という用語はもちろん、「リキッド消費」という言葉に新鮮な共感を抱いた。

ちょっと、自己流の理解で紹介。

 

まず示されたのは時間の短縮。ラジオは5000万人に普及するのに38年、テレビが13年、インターネットはたったの4年。モノも制度もあっという間に「過去」になり、「現在が縮んでいる」と。そのことが、時間は10倍になっている、となる。

具体的にどういう変化かというと、所有しない(レンタル商品など)、所属に固執しない(自己流儀、転職の気軽さなど)、瞬時を楽しみ、情報で判断する(ファーストフード、SNS情報、興味が複数にわたる「小分け」型などへ)、それらを支える「脱物質化」だとの事。

「リキッド」は文字通り「液体、流体」の事で、「ソリッド」の対照語として「英国で2017年に提唱された概念」で、「ソリッド」がモノづくり社会を指し、「リキッド」が流動化する環境、社会になぞれられ生まれたと言う。これに「消費」という言葉を付けて、経済産業の視点からの消費社会を表しているようだ。

 

この事で何が効いたかと思ったのは、建築もこの概念に飲み込まれているのではないか、と思えたから。今後、マルチで建築を語る時、この概念を無視してはいけない、という想いが生まれた。

もちろん、この新聞記事では建築の事などは意識していない様だが、さて我々はどうだろうか。長く使う、環境にやさしい住宅、と意識していれば、気にしなくていいのだろうか。気楽に住み替えはもちろん、簡単に解体出来て転用や移動できるとか、住み手の都合で軽くプラン変更できるとか。住宅型トレーラーとか、住宅型テントとかが跋扈する未来を意識しないでいいのか。

 

それはともかく、僕自身が異端なので、普通の建築家と視点、論点、関心ごとが違うのかもしれないとも思えるが。過日、知人から電話を貰い、話しているうちに、違和感が減少してきた。

 

自分がやってきたことは何だったのだろう? 大手企業との格差などの経済問題はさておいて、日本の建築法規体制問題などに取りつかれてきて、この疑問が払拭できないのは、どんどん遅れをとる「ソリッド消費」社会の制度に振り回されてきたからではないか。自分も「ソリッド消費」社会に居ながら、「リキッド消費」社会を泳いで来たのかも、と。

 

創るものは安らかに心地良く、一方、時代に対応するには「リキッド消費」に対応を、とすればいいのか。

静かに頼まれる住宅を造っていればいい、というなら問題ないのかも。

そうではなく、この社会に振り回されたなら、そこに理由があったはずではないか?、この社会で必死にやって来た意味は何だったのか?、どうしてそれが社会化出来ないのか、という訳だ。

 

「リキッド消費」社会を容認するスタンスで、己が行為が興味の拡散する「小分け」型で良ければ、自分のやってきたことを、その論理でまとめることも意味ありかも。

これは企画展のようなことをやろうとするなら、大きな判断になりそうだ。

個人の創造性を担保に、時代の変化に沿った表現行為は、必ずしも絶対的な創造行為でなくとも、現代に合った表現行為として評価されるべきではないか、と。

とするなら、ネット情報にも出来ていない表現を、誰に向かって、どのように見て貰おうとするのか。仲間内だけでは意味がないだろうし…。

 

個展の開催なんて意味がなくなった、と思わないだろうか。

 

既に、近似の事は何度も書いた記憶があるが、個人的に行き詰っている課題がある。

 

最近、ある企画展の公募があり応募したが落選。提案テーマは「マルチ・デザイン・アトランダム」だった。

この時から、我々のすべき企画展や個展とはどんなものか。一体、やる意味があるのか、悩み始めている。

 

ところで、11月1日の日経新聞記事で、「『1日240時間』とリキッド消費」という編集委員(中村直文氏)の記事に出会い、何のことやら判らなかったが、眺め読みし始めたら、その意味が伝わってきた。

『1日240時間』という用語はもちろん、「リキッド消費」という言葉に新鮮な共感を抱いた。

ちょっと、自己流の理解で紹介。

 

まず示されたのは時間の短縮。ラジオは5000万人に普及するのに38年、テレビが13年、インターネットはたったの4年。モノも制度もあっという間に「過去」になり、「現在が縮んでいる」と。そのことが、時間は10倍になっている、となる。

具体的にどういう変化かというと、所有しない(レンタル商品など)、所属に固執しない(自己流儀、転職の気軽さなど)、瞬時を楽しみ、情報で判断する(ファーストフード、SNS情報、興味が複数にわたる「小分け」型などへ)、それらを支える「脱物質化」だとの事。

「リキッド」は文字通り「液体、流体」の事で、「ソリッド」の対照語として「英国で2017年に提唱された概念」で、「ソリッド」がモノづくり社会を指し、「リキッド」が流動化する環境、社会になぞれられ生まれたと言う。これに「消費」という言葉を付けて、経済産業の視点からの消費社会を表しているようだ。

 

この事で何が効いたかと思ったのは、建築もこの概念に飲み込まれているのではないか、と思えたから。今後、マルチで建築を語る時、この概念を無視してはいけない、という想いが生まれた。

もちろん、この新聞記事では建築の事などは意識していない様だが、さて我々はどうだろうか。長く使う、環境にやさしい住宅、と意識していれば、気にしなくていいのだろうか。気楽に住み替えはもちろん、簡単に解体出来て転用や移動できるとか、住み手の都合で軽くプラン変更できるとか。住宅型トレーラーとか、住宅型テントとかが跋扈する未来を意識しないでいいのか。

 

それはともかく、僕自身が異端なので、普通の建築家と視点、論点、関心ごとが違うのかもしれないとも思えるが。過日、知人から電話を貰い、話しているうちに、違和感が減少してきた。

 

自分がやってきたことは何だったのだろう? 大手企業との格差などの経済問題はさておいて、日本の建築法規体制問題などに取りつかれてきて、この疑問が払拭できないのは、どんどん遅れをとる「ソリッド消費」社会の制度に振り回されてきたからではないか。自分も「ソリッド消費」社会に居ながら、「リキッド消費」社会を泳いで来たのかも、と。

 

創るものは安らかに心地良く、一方、時代に対応するには「リキッド消費」に対応を、とすればいいのか。

静かに頼まれる住宅を造っていればいい、というなら問題ないのかも。

そうではなく、この社会に振り回されたなら、そこに理由があったはずではないか?、この社会で必死にやって来た意味は何だったのか?、どうしてそれが社会化出来ないのか、という訳だ。

 

「リキッド消費」社会を容認するスタンスで、己が行為が興味の拡散する「小分け」型で良ければ、自分のやってきたことを、その論理でまとめることも意味ありかも。

これは企画展のようなことをやろうとするなら、大きな判断になりそうだ。

個人の創造性を担保に、時代の変化に沿った表現行為は、必ずしも絶対的な創造行為でなくとも、現代に合った表現行為として評価されるべきではないか、と。

とするなら、ネット情報にも出来ていない表現を、誰に向かって、どのように見て貰おうとするのか。仲間内だけでは意味がないだろうし…。

「個人データ」を活かす「辿り着いた想い残しの文化観、いくつか」

 

「個人データ」を活かす「辿り着いた想い残しの文化観、いくつか」

 

人は死ぬ。これはどうしようもない。

此のところ、己(おのれ)の人生を振り返ることが多くなったが、ここ20年ほどは思考の深堀が進んでいない。その結果、具体的な行動にも表せないような状況が続いている。

もっともNPO法人の事業や(公社)発明協会の役職とかは、それなりにこなしてきたのだが、これらは自分の考える創造行為としては社会性が強く、自分の想う表現性はかなり違う。

個人的な創造をやるとしても、本気で経済行為として利益を上げるためでないので、人との関りも薄くなる。そうなってくれば、「こうであって欲しい」という気持ちと合っては来るが。

一方、そんな表現したい仕事でも、本気でやりたいことがあるならうれしいが、人、時代、歴史、素材、表現手続き…何を見ても、また思い返してみても、心に引っ掛かってこない。他人の少し面白い作品や仕事を見ても、自分のやることではない、と思えてしまう場合が圧倒的に多い。

実際、芸術家でも表現の背景にあるのは、個人的な虚栄心や名誉心。それも真摯な向かい方としては、自己の死を意識しての虚無感からの脱出の努力ではないだろうか。そもそも、もう今や芸術家という職業が存在するのかどうか。

(後日追記:でも、こう考えること自体が「旧来の芸術観」に囚われているのかも知れない。

今夜見た、「柳宗悦の民芸」(NHK知恵泉6/4)で考えると、社会運動と化した人生でも生きる言い意味があるということを教えられるが)。

 

今朝、起きてベッドでしばらく考えていたのは、残された時間で何をやるかだ。というより何が出来るかだった。

もちろん出来る可能性は投資するコストに関わるが、軽井沢での新築計画があるのは事前の実情と言える。それは別として、そこで意識した自分に近い仕事は、ここまで貯めてきた「個人データ」の活用だ。それもあまりに個人的なことは、岸恵子でもなければ書いても意味が無い(今朝の新聞広告で、岩波から彼女の日記が出版されたのを知ったので)。

 

そこで、「個人データ」を3段階に区分けて考えた上で、論ずる案を考えてみた。

トップは、今こその歴史的大変換時代を総括するような視点での文化観の表明。2段目はそのことに関わる個人記録でもよく、具体的現実例のような事をまとめて表現する。3段目は、これがもしかしたら面白いかもしれない全くの個人記録を、時代に合わせて添付する、というもの。

これでも、トップの歴史々観がしっかり表現出来なければ意味がない。

 

過日の日経新聞記事で「NY・芸術家のスタジオ(4):ロバート・ラウシェンバーグ」の「美術の枠広げ 社会つなぐ」(2024/5/26)を読んで、若いころはファンだったものの、今や羨ましいというより、呆れ返る気持ちの方が強くなってしまい、ここまで社会化してしまうと、もう芸術家ではないのでは、とさえ思えてきた(なお、この記事を書いた神谷幸江さんは凄い理解者だ)。

そんなことを意識しつつも、大自然と古い文化以外、何を見てもつまらない、意味がないと思えてならない今、この「時代の空虚感」をどう証明すべきなのかが自分の大きな課題のように思えてきている。今、ここまで書いてみて、「時代の空虚感、あるいは過渡期感」という言葉が出てきたことだけでも、書いてみた意味を感じている。

 

見方によると、この「時代の空虚感、過渡期感」に繋がっているのが、いわば、「辿り着いた思い残しの文化観、いくつか」というタイトル(仮。場合によっては「いくつか」でなく、「20選」とか)のようでもある、とも思い始めた(翌朝の想い)。

それによって、今の社会への不満、疑問、空虚感、過渡期感を残す記録になりそうだ。

「子供時代の限定された夢」「高度成長期の虚無感」「今の空虚感」… これからのやりたい仕事、というより、やらねばならぬある部分は、100頁にまでなった「個人データ」をこのような視点から再編集することかもしれない。

A Forumへのコメント

建築構造から建築設計全体を視野に入れた社会論理を展開してきた組織がA Forumだろう。神田順先生や斎藤公男先生が主役だ。

ここで話したこともるが、最近は縁遠くなっている。

ところが、神田先生や斎藤先生の意見書を読み、何か言いたくなってしまい、気ままに目盛ったことを送ることになった。それが以下であり、斎藤先生から善意な返信も頂いた。この6月15日には、関わりのあるフォーラムを行うようだ。

 

 

A Forumへのコメント20240515

 

最近の都心の巨大ビルの建設ラッシュをみると、いわば「ビル新築工事への開発ルート」のルール化と組織化が実務化され、「社会体制的出来上がり」を感じざるを得ない。それはビルに留まらず今や、あらゆる民間住宅等の設計行為にも応用されていると思える。

建築基準法から始まる膨大な予備知識、一方、現代ならではのAIや環境への知識や理解という多面的な要求に対して、現実には個人では対応しきれないために責任も取れず、建築家自身が組織の部分役になっていかざるを得ない。そのことから建築設計業界を取り巻く環境を読めば、やはり経済万能主義への配慮と対策が希薄だと思うが、対応へ手続きは難しい。

建築家仲間だけでは体制化が出来ない問題を、個人の倫理や感性に戻して議論するのは今の時代こそ重要な意味があると思う一方、日本社会が創り上げてきた大企業体制最優先の産業構造とそれへの依存体質が、建設業界ではむしろ益々生きて来ているとも感じざるを得ない。これに対応する方法は無いのか。

AI時代の到来に至り、「大切なのは感性で動いて生きている人間だ」という認識も生まれている。ここで建築家は従来の設計感覚や倫理観を越えて、既にAIと経済万能主義の限界を感じているエンジニアやエコノミストを呼び込んで、これからの人の幸せに繋がる場所(空間)づくりを考えて行くシステムの設定が急務のように思われる。

建築構造から建築設計全体を視野に入れた社会論理を展開してきた組織がA Forumだろう。神田順先生や斎藤公男先生が主役だ。

ここで話したこともるが、最近は縁遠くなっている。

ところが、神田先生や斎藤先生の意見書を読み、何か言いたくなってしまい、気ままに目盛ったことを送ることになった。それが以下であり、斎藤先生から善意な返信も頂いた。この6月15日には、関わりのあるフォーラムを行うようだ。

 

 

A Forumへのコメント20240515

 

最近の都心の巨大ビルの建設ラッシュをみると、いわば「ビル新築工事への開発ルート」のルール化と組織化が実務化され、「社会体制的出来上がり」を感じざるを得ない。それはビルに留まらず今や、あらゆる民間住宅等の設計行為にも応用されていると思える。

建築基準法から始まる膨大な予備知識、一方、現代ならではのAIや環境への知識や理解という多面的な要求に対して、現実には個人では対応しきれないために責任も取れず、建築家自身が組織の部分役になっていかざるを得ない。そのことから建築設計業界を取り巻く環境を読めば、やはり経済万能主義への配慮と対策が希薄だと思うが、対応へ手続きは難しい。

建築家仲間だけでは体制化が出来ない問題を、個人の倫理や感性に戻して議論するのは今の時代こそ重要な意味があると思う一方、日本社会が創り上げてきた大企業体制最優先の産業構造とそれへの依存体質が、建設業界ではむしろ益々生きて来ているとも感じざるを得ない。これに対応する方法は無いのか。

AI時代の到来に至り、「大切なのは感性で動いて生きている人間だ」という認識も生まれている。ここで建築家は従来の設計感覚や倫理観を越えて、既にAIと経済万能主義の限界を感じているエンジニアやエコノミストを呼び込んで、これからの人の幸せに繋がる場所(空間)づくりを考えて行くシステムの設定が急務のように思われる。

石原慎太郎の死後出版から

石原慎太郎の死後出版から

 

行き詰った人生をどうしようもない。この気持ちが自分だけではないようだ、ということを石原慎太郎の「『私』という男の生涯」という死後出版から感じた。

家内が買っていて、ちゃんと読んだのか、捨ててくれという廃棄書類の中にあった。全部を読んだのではない。最後のⅩⅣ、ⅩⅤだけだが。

「老化は一種の希薄化された死であり、死という瞬間への減速装置であって、言葉では表現不可能な死という瞬間を時間の経過の中に溶かして伝達する作用だろう」と述べている。

全く異存はない。自分の気持ちと同じだ。石原ほど現実の知名度が高くても、死を前にした一人の男としての存在感は同じようなものだ、と感じざるを得なかった。

全部を読まないで感想を述べるのは失礼だが、このために前の全部の記述があると思わざるを得ない。20240324