石原慎太郎の死後出版から

石原慎太郎の死後出版から

 

行き詰った人生をどうしようもない。この気持ちが自分だけではないようだ、ということを石原慎太郎の「『私』という男の生涯」という死後出版から感じた。

家内が買っていて、ちゃんと読んだのか、捨ててくれという廃棄書類の中にあった。全部を読んだのではない。最後のⅩⅣ、ⅩⅤだけだが。

「老化は一種の希薄化された死であり、死という瞬間への減速装置であって、言葉では表現不可能な死という瞬間を時間の経過の中に溶かして伝達する作用だろう」と述べている。

全く異存はない。自分の気持ちと同じだ。石原ほど現実の知名度が高くても、死を前にした一人の男としての存在感は同じようなものだ、と感じざるを得なかった。

全部を読まないで感想を述べるのは失礼だが、このために前の全部の記述があると思わざるを得ない。20240324

現代アートの未来

 

現代アートの未来」というタイトルだが、事情があって、少し前置きを。

 

 

 まず、真剣な論考だと思っても、どこに、誰に語りかけていいのか判らない場合が多い。これが大学教授だったりすれば、少しは違うのだろうか。

 古い原稿を整理していたら2021年1月、つまり3年以上前だが、朝日新聞に掲載された、森美術館の片岡真実館長への文化部記者大西若人氏のインタービウ記事へのコメントが出てきた(記事は1月5日朝刊、「今を生き抜く人の姿 伝える使命」片岡館長に聞くアートシーンの現在と未来)。

 この原稿を朝日新聞社に送った記憶があるのだが、そんないい加減なやり方だったからか、あるいは遠慮がちな気持ちがそうさせたのか、返事も無かったし、当然、掲載もされていない。

 記事は、当時の展示だった「STARS展」や「アナザーエナジー展」を語り口にしているが、何か大きく印象があったため、この原稿を書いている。

 読み返してみると、幾分冗長だが、自分のアートへの想いを書いている気持は今でも変わっていない。最も、諦めの気持ちは強くなっているが。

 そんな想いから、この捨てられた記事を再掲しておくことにした。

 

 

 

 

朝日新聞東京本社 文化くらし報道部・美術ご担当者様   Fax送信: 03-5541-8611 2021/1/11

 

現代アートの未来  

「今を生き抜く人の姿 伝える使命」(朝日新聞2021年1月5日夕刊「彩る」)への意見

 

 新型コロナの襲来を経て、資本主義の行き詰まりに至るまで、人類はその弱みを見せつけられました。まさに歴史の転換点に掛かっていると言えそうです。

 怯えて何も出来なくなるこの社会とは何だったのかとか、改めて「人間て何なの?」という根本的な問いかけの前に、現代アートも立ち止まらせられたようです。そこには「そもそも現代アートの存在意味とは何か」という疑問も出て来るかも知れません。

 見えるものを記録する絵画が写真の登場以来、主役を奪われ、表現上の主観の追及や展開がアートを拡散させました。これが経済の発展に組み込まれ現代に至っていますが、アーチストになりたいという供給者が居て経済が周っている以上、需要を見つけなければならない。しかしそこには人間本来の生きるための欲望充足の必要度は、どの位感じられるのか。現代はそこまで暴かれてしまっていると言えるでしょう。

 しかし現代アートが、それでも必要だと認識するには、出来れば人間に生きる希望や夢を与えてくれるか、少なくとも人間存在の根本に気づきを与えてくれる事が必要です。まさにタイトルにある「今を生き抜く人の姿 伝える使命」ということです。

 片岡森美術館々長の仰るように、「大量動員型のビジネスモデル」が問題化する一方、世界の美術界における日本の窓口としての役割や、それを意識しての地域性の掘り下げ、民族的な評価尺度に大きな差のある世界状況の縮図としての現状把握は、美術館の日常業務として進めることは確かに必要でしょう。それでも、何より「生きることが大変な時代に、その根源を問うような作品」に出会う時の感動を大切にしていることの重要性は感じられます。

 更に気づきを与えてくれるには、ついでに資本主義への問いかけの前に、本質的な意味でのわが国の経済人などの低い美的関心も引き寄せるためには、次のような広範な追確認も必要だと思われます。それは三つ位あるように思います。

 一つは「人類史、現代史への喚起」、次に「生物としての人間への自覚」、三つ目に「サイエンスへの突き詰め」ということでしょうか。

 「人類史への喚起」とは、あり得ないような極端なイメージ例を挙げれば、クフ王のピラミッドの礎石の一つを借りてきて展示するというようなことです。「現代史」の方では、この100年余を、手法、分野、対象、社会要因などを包括する大きな視点から個人の作家で流れを見て、歴史の急変と価値観の大転換を学ぶこと。そこにはモノとしての作品主義からの離脱、逆にコロナが教えた「見えるものへの執着」という課題も含まれていると思われます。

 そこからも、「生物としての人間への自覚」が、どんどん脳内人間になって行くことの反省材料としての気づきの設定へ向かうでしょう。

 リウファンの砂利道の話もありましたが、例えば砂利石の緩い小山を造って、頂きに鳥居でも設置、それを潜り抜けるようにする。滑ってなかなかたどり着けないように出来れば面白い、とか。他には、展示室の入口で靴を脱ぎ、各所で温度の変わる「足湯」の回廊か池を散策するという表現。あちこちにくつろぎの場があり、部分的に水になるのもいいなど。また、敢えて「三密」状態で四畳半に集う昭和初期の家族などを原寸大の立体造形にすれば、懐かしみが観客を誘うかも。

 炭素化社会への危機感を含め、ここまで文明の転換点に差し掛かってくると、何らかの未来が描けないかという気持ちも強まります。

 でもアートがモノ、空間、イメージに囚われている以上、新素材や製造技術という科学技術の分野にまで入っていくには科学者のメンタルが必要。三つ目の「サイエンスへの突き詰め」とは、これも気にしていることからの思い付きで言えば、将来、月世界や火星での生活が余儀なくされるような時代を考えると、暗闇の世界ではたまらない、青空が欲しい。かと言って今の我々には何も出来ない。でも科学技術信仰の一辺倒にはブレーキも掛けたい、とすると、現代アートが現世に留まらざるを得ないのは仕方がないのかも知れません。せいぜい発電用の新素材「ペロブスカイト」を塗布した避難用のオリジナルなテントや、同材で生活もできる大洪水を生き抜く救命ボートでも作る、ウエアや傘で夜道を明るくして歩く、というようなことでしょうか。

 いずれにしても、格差が生んだ気の緩んだ金銭価値への信奉が、アートの「虚飾」を煽っているのかも知れない現実を越えて、美術館もアーティストも経済効果に突き動かされ、目先の表現・演出効果ばかりに頼るのでなく、人の心に刺さり、美しく明るい未来への予感も含む社会と文化の引導役であってほしいと願っています。その観点から、美術館関係の皆様の努力に期待しています。

 

             

この世に残すとはどういうことか

社会的には大きく活躍した岳父が、ある時「人生は無意味だ」と言った。

実際に自分の耳で聞いたのではなく、家内の伝言だったように思うが、記憶は確かではない。その気持ちは今の自分に繋がっている。

歴史に何か残したいとはだれでも思うだろうが、常識はすべて空しく聞こえる。

墓石に記録を残す。一般的な意味の作品を残す、などだ。

デザイナーから画家に転身、僕が自分の本を紹介してくれ(朝日新聞)と送本して頼んだら、時間が過ぎていると断って来た横尾忠則氏。最近、週刊新潮に自分の想いを連載をしていて、たまに読んだら、「意味もなく毎日、絵を描いている」と。歴史へのアンガージュマンは自分でも分らないようだ。

一方、横山大観関東大震災(1923/大正12/9/1)の直前と直後に2度に渡って墨絵の絵巻物「生々流転」を描いたようだ。特に後からのは55.3×4070㎝、つまり40mの気違い的な長さだ。(日経新聞2023/8/13)。明らかに自分の記録を残そうとしたものだ。

こういうことを見ていると、歴史性から見て残すに足るような仕事なら、それだけの意味があるのかも知れないが、皆がそんなことをしたら、地球はゴミの山になっていく可能性がある。

モーツアルトの「レクイエム」を聞いていると、これは残ってほしいと思うし、地球が滅ばない限り、絶対残したいと思う。

本当に価値のあるものは何だ? 「モナ・リザ」も燃えてしまったらおしまいだ。

特に「作品」など残さなくても、今、大河ドラマで人気の徳川家康はどうだ。さすがに300年ほどの歴史を生み出した志士としては残るだろう。

こういうことを考えていると、なまじの事はやる必要がないと思わずにはいられない。

鼎談「ニッポンのデザイン」

最近、(公社)発明協会の出している機関誌「発明」6月号で、同協会副会長の岩井良行氏、(公財)日本デザイン振興会理事長の深野弘行氏と3人で話す機会に恵まれた。

タイトルは「日本のデザイン」で、かなり言いたいことを言わせてもらった。

7pあり、PDFも貰っているが、このブログに添付できるものやら。

誰かに相談して、添付出来るようなら紹介します。

「ミニマル個人から見る人類史」というのはどうか

「ミニマル個人から見る人類史」というのはどうか

 

最近、コロナ禍もあり、今が時代の大変革期にある、とはしばし言われている。

それは事実だろう。しかも、背景も考えると歴史的な変換時点にあると言ってもおかしくないようにさえ思う。それは、ネット革命から始まったAI時代の到来も関わる。メタバースも取り込んで、電子社会がどこまで「人間性との整合性」をもたらすかは、ほとんど今からの人類史的格闘と思える。

ここからは個人的な話になるが、過日、38才になる青年真っ盛りの息子に、思い出しで自分の15年以上に渡って記載、変更してきた「個人データ」を見せ、「この保存が大切なので協力してくれ。ここには個人史と言っても、お前の記録も入っている。記載の内容は世界史の視野だ」と言ったら、「ㇷ゚ッ」と笑われた。

親爺(息子はこの言い方を止めない)の生活と環境を見ていると、とても「世界史」どころではないじゃん、とでも言いたそうな印象だった。

言っても仕方がない。この息子にまだ判る筈はない、との想いから聞き流したが、一般常識としては、このように取られても仕方がないだろう。ここに「日常業務に没頭していると見えにくい歴史の大転換」がある、しかもそれは、今の時代が英雄を生んだ歴史の経過のよ「ㇷ゚ッ」とうな時代にあるのでなく、情報の共有化により、あまねく個人の問題にまで還元されてきているという現実に関わっている。

しかしそのことを最大の視野で把握し、一方の自分の所作との繫がりから判断し行動に移すとなると、やはり誰でもできる「ㇷ゚ッ」とことではない。

そこから自分の思索が始まる。

今、考えていることは、どんどん世界史的な視野から書き込みを加えているこの個人データを、どう一般化していくか、ということだ。「ひとり本屋」をやるなど珍しいことをやって紹介するなどで、キャッチ―な話題としてメディアに取り上げられる方向を探すという努力にはあまり関心が無い。

もう一つ、「ㇷ゚ッ」と横を向かれた話を加える。

日本建築家協会港地域会での、コロナ禍終焉を意識して久しぶりに行われたリアルの新年会に、新会長の佐藤さんが同席してくださった。そこでSDGsなどの話はスキップしたい雰囲気を承知の上で、「まだ建築家に、社会に向けてやることがある」と言った途端に、横を向かれてしまった。

実際、最近の日経新聞などで盛んに広報されている主題がこれで、各界の語り人を集めて、「新しい社会の創り方」が常態的なテーマになっている。

しかし、これには僕には2つの問題がある。1つは、産業界のそれぞれの立場にあってはSDGsに向かって出来ることをやる、で良いが、デザインには何をやることがあるのかは不明のままだ。実際、今の所、言葉で表現しているということと、実行には政治・行政的なアクションに至らねばならない、と言うことで個人的な視野を越えている。

2つ目は、これに関係するが、自分がしたいことは言葉での表現ではなく、何らかの視認化である。(この記述継続します)

 

「ミニマル個人から見る人類史」というのはどうか

「ミニマル個人から見る人類史」というのはどうか

 

最近、コロナ禍もあり、今が時代の大変革期にある、とはしばし言われている。

それは事実だろう。しかも、背景も考えると歴史的な変換時点にあると言ってもおかしくないようにさえ思う。それは、ネット革命から始まったAI時代の到来も関わる。メタバースも取り込んで、電子社会がどこまで「人間性との整合性」をもたらすかは、ほとんど今からの人類史的格闘と思える。

ここからは個人的な話になるが、過日、38才になる青年真っ盛りの息子に、思い出しで自分の15年以上に渡って記載、変更してきた「個人データ」を見せ、「この保存が大切なので協力してくれ。ここには個人史と言っても、お前の記録も入っている。記載の内容は世界史の視野だ」と言ったら、「ㇷ゚ッ」と笑われた。

親爺(息子はこの言い方を止めない)の生活と環境を見ていると、とても「世界史」どころではないじゃん、とでも言いたそうな印象だった。

言っても仕方がない。この息子にまだ判る筈はない、との想いから聞き流したが、一般常識としては、このように取られても仕方がないだろう。ここに「日常業務に没頭していると見えにくい歴史の大転換」がある、しかもそれは、今の時代が英雄を生んだ歴史の経過のような時代にあるのでなく、情報の共有化により、あまねく個人の問題にまで還元されてきているという現実に関わっている。

しかしそのことを最大の視野で把握し、一方の自分の所作との繫がりから判断し行動に移すとなると、やはり誰でもできることではない。

「ミニマル個人から見る人類史」というのはどうか

「ミニマル個人から見る人類史」というのはどうか

 

最近、コロナ禍もあり、今が時代の大変革期にある、とはしばし言われている。

それは事実だろう。しかも、背景も考えると歴史的な変換時点にあると言ってもおかしくないようにさえ思う。それは、ネット革命から始まったAI時代の到来も関わる。メタバースも取り込んで、電子社会がどこまで「人間性との整合性」をもたらすかは、ほとんど今からの人類史的格闘と思える。

ここからは個人的な話になるが、過日、38才になる青年真っ盛りの息子に、思い出しで自分の15年以上に渡って記載、変更してきた「個人データ」を見せ、「この保存が大切なので協力してくれ。ここには個人史と言っても、お前の記録も入っている。記載の内容は世界史の視野だ」と言ったら、「ㇷ゚ッ」と笑われた。

親爺(息子はこの言い方を止めない)の生活と環境を見ていると、とても「世界史」どころではないじゃん、とでも言いたそうな印象だった。

言っても仕方がない。この息子にまだ判る筈はない、との想いから聞き流したが、一般常識としては、このように取られても仕方がないだろう。ここに「日常業務に没頭していると見えにくい歴史の大転換」がある、しかもそれは、今の時代が英雄を生んだ歴史の経過のような時代にあるのでなく、情報の共有化により、あまねく個人の問題にまで還元されてきているという現実に関わっている。

しかしそのことを最大の視野で把握し、一方の自分の所作との繫がりから判断し行動に移すとなると、やはり誰でもできることではない。