「個人データ」を活かす「辿り着いた想い残しの文化観、いくつか」

 

「個人データ」を活かす「辿り着いた想い残しの文化観、いくつか」

 

人は死ぬ。これはどうしようもない。

此のところ、己(おのれ)の人生を振り返ることが多くなったが、ここ20年ほどは思考の深堀が進んでいない。その結果、具体的な行動にも表せないような状況が続いている。

もっともNPO法人の事業や(公社)発明協会の役職とかは、それなりにこなしてきたのだが、これらは自分の考える創造行為としては社会性が強く、自分の想う表現性はかなり違う。

個人的な創造をやるとしても、本気で経済行為として利益を上げるためでないので、人との関りも薄くなる。そうなってくれば、「こうであって欲しい」という気持ちと合っては来るが。

一方、そんな表現したい仕事でも、本気でやりたいことがあるならうれしいが、人、時代、歴史、素材、表現手続き…何を見ても、また思い返してみても、心に引っ掛かってこない。他人の少し面白い作品や仕事を見ても、自分のやることではない、と思えてしまう場合が圧倒的に多い。

実際、芸術家でも表現の背景にあるのは、個人的な虚栄心や名誉心。それも真摯な向かい方としては、自己の死を意識しての虚無感からの脱出の努力ではないだろうか。そもそも、もう今や芸術家という職業が存在するのかどうか。

(後日追記:でも、こう考えること自体が「旧来の芸術観」に囚われているのかも知れない。

今夜見た、「柳宗悦の民芸」(NHK知恵泉6/4)で考えると、社会運動と化した人生でも生きる言い意味があるということを教えられるが)。

 

今朝、起きてベッドでしばらく考えていたのは、残された時間で何をやるかだ。というより何が出来るかだった。

もちろん出来る可能性は投資するコストに関わるが、軽井沢での新築計画があるのは事前の実情と言える。それは別として、そこで意識した自分に近い仕事は、ここまで貯めてきた「個人データ」の活用だ。それもあまりに個人的なことは、岸恵子でもなければ書いても意味が無い(今朝の新聞広告で、岩波から彼女の日記が出版されたのを知ったので)。

 

そこで、「個人データ」を3段階に区分けて考えた上で、論ずる案を考えてみた。

トップは、今こその歴史的大変換時代を総括するような視点での文化観の表明。2段目はそのことに関わる個人記録でもよく、具体的現実例のような事をまとめて表現する。3段目は、これがもしかしたら面白いかもしれない全くの個人記録を、時代に合わせて添付する、というもの。

これでも、トップの歴史々観がしっかり表現出来なければ意味がない。

 

過日の日経新聞記事で「NY・芸術家のスタジオ(4):ロバート・ラウシェンバーグ」の「美術の枠広げ 社会つなぐ」(2024/5/26)を読んで、若いころはファンだったものの、今や羨ましいというより、呆れ返る気持ちの方が強くなってしまい、ここまで社会化してしまうと、もう芸術家ではないのでは、とさえ思えてきた(なお、この記事を書いた神谷幸江さんは凄い理解者だ)。

そんなことを意識しつつも、大自然と古い文化以外、何を見てもつまらない、意味がないと思えてならない今、この「時代の空虚感」をどう証明すべきなのかが自分の大きな課題のように思えてきている。今、ここまで書いてみて、「時代の空虚感、あるいは過渡期感」という言葉が出てきたことだけでも、書いてみた意味を感じている。

 

見方によると、この「時代の空虚感、過渡期感」に繋がっているのが、いわば、「辿り着いた思い残しの文化観、いくつか」というタイトル(仮。場合によっては「いくつか」でなく、「20選」とか)のようでもある、とも思い始めた(翌朝の想い)。

それによって、今の社会への不満、疑問、空虚感、過渡期感を残す記録になりそうだ。

「子供時代の限定された夢」「高度成長期の虚無感」「今の空虚感」… これからのやりたい仕事、というより、やらねばならぬある部分は、100頁にまでなった「個人データ」をこのような視点から再編集することかもしれない。