「磯崎新さんを悼む」新聞記事への感想

磯崎新さんを悼む」藤森照信氏(日経新聞文化欄記事(2023/01/06)へのコメント

 

この日の「文化」欄にタイトルのような記事があった。藤森氏とは面識がなく、コピーは記事担当者不明のまま新聞社に送った。藤森氏に届いたかどうかは不明。敢えてその感想を記す。                                

 

 

 

「空間へ」を読み始めたら、とてもついていけず、何でこんなに言葉を使うのだろう、問題は日本人の根底にある輸入文化の上塗り体質を変えて「創作主体者を活かす法体系や社会認知の見直し要求」が問題ではないのか、との気持ちになり、磯崎から離れた。このことが彼の成果について身から離れぬイメージを形成した。

 

日経新聞藤森照信氏の記事で知った磯崎の表に出ない部分を知ることになり、それなりの深層を見た気がすると共に何か身震いを感じた。

「近代型建築家像」、しかも輸入されたその姿に行き詰まりを予感した最初の一人として大きな選択を迫られた時に、日本の社会構造が抱く問題より、視覚表現としての芸術に近づいたということか。

日常が創作的設計業務に追われている時に、作家としての建築家に、営業、財務、人事、安全など分業と連携による事業推進などに気配りすることは考えられない。特に当時は当然、このような分野までを読み込む「建築家」などいない。藤森氏の言う「商店街の室内化と巨大建築の都市化」が見えている時、当然、アートの方が近づき易い。

つまり磯崎としても、見えてきた「建築の死」への向かい方は結果的に社会表面上からの把握であり、日本の産業構造の骨格まで踏み込むことは出来なかったということだろう。他方で「安らぐ住環境」にもたどり着けなかったようだ。

 

当時の感覚で言えば、「建築家」は「作品」を造ってしまえば、後はどうでも言える。特に「建築自体は言葉では無い」と判っているので、磯崎はそこをアートに乗っけたのではないかと疑ってしまう。

 

建築家としてこれ以上ない魅力の持主だが、彼の行動が日本の建築家を救うことになったのかと言えば、そうは思わない。何人もの道連れと共に迷路に入り、結果的に「建築家」という職能を解体させた一人の男だったように思う。でも、それを言うのは、とても個人能力や100年単位では出来ないことを無理強いして、死者を鞭打つことになるだろう。