「ミニマル個人から見る人類史」というのはどうか

「ミニマル個人から見る人類史」というのはどうか

 

最近、コロナ禍もあり、今が時代の大変革期にある、とはしばし言われている。

それは事実だろう。しかも、背景も考えると歴史的な変換時点にあると言ってもおかしくないようにさえ思う。それは、ネット革命から始まったAI時代の到来も関わる。メタバースも取り込んで、電子社会がどこまで「人間性との整合性」をもたらすかは、ほとんど今からの人類史的格闘と思える。

ここからは個人的な話になるが、過日、38才になる青年真っ盛りの息子に、思い出しで自分の15年以上に渡って記載、変更してきた「個人データ」を見せ、「この保存が大切なので協力してくれ。ここには個人史と言っても、お前の記録も入っている。記載の内容は世界史の視野だ」と言ったら、「ㇷ゚ッ」と笑われた。

親爺(息子はこの言い方を止めない)の生活と環境を見ていると、とても「世界史」どころではないじゃん、とでも言いたそうな印象だった。

言っても仕方がない。この息子にまだ判る筈はない、との想いから聞き流したが、一般常識としては、このように取られても仕方がないだろう。ここに「日常業務に没頭していると見えにくい歴史の大転換」がある、しかもそれは、今の時代が英雄を生んだ歴史の経過のよ「ㇷ゚ッ」とうな時代にあるのでなく、情報の共有化により、あまねく個人の問題にまで還元されてきているという現実に関わっている。

しかしそのことを最大の視野で把握し、一方の自分の所作との繫がりから判断し行動に移すとなると、やはり誰でもできる「ㇷ゚ッ」とことではない。

そこから自分の思索が始まる。

今、考えていることは、どんどん世界史的な視野から書き込みを加えているこの個人データを、どう一般化していくか、ということだ。「ひとり本屋」をやるなど珍しいことをやって紹介するなどで、キャッチ―な話題としてメディアに取り上げられる方向を探すという努力にはあまり関心が無い。

もう一つ、「ㇷ゚ッ」と横を向かれた話を加える。

日本建築家協会港地域会での、コロナ禍終焉を意識して久しぶりに行われたリアルの新年会に、新会長の佐藤さんが同席してくださった。そこでSDGsなどの話はスキップしたい雰囲気を承知の上で、「まだ建築家に、社会に向けてやることがある」と言った途端に、横を向かれてしまった。

実際、最近の日経新聞などで盛んに広報されている主題がこれで、各界の語り人を集めて、「新しい社会の創り方」が常態的なテーマになっている。

しかし、これには僕には2つの問題がある。1つは、産業界のそれぞれの立場にあってはSDGsに向かって出来ることをやる、で良いが、デザインには何をやることがあるのかは不明のままだ。実際、今の所、言葉で表現しているということと、実行には政治・行政的なアクションに至らねばならない、と言うことで個人的な視野を越えている。

2つ目は、これに関係するが、自分がしたいことは言葉での表現ではなく、何らかの視認化である。(この記述継続します)