この世に残すとはどういうことか

社会的には大きく活躍した岳父が、ある時「人生は無意味だ」と言った。

実際に自分の耳で聞いたのではなく、家内の伝言だったように思うが、記憶は確かではない。その気持ちは今の自分に繋がっている。

歴史に何か残したいとはだれでも思うだろうが、常識はすべて空しく聞こえる。

墓石に記録を残す。一般的な意味の作品を残す、などだ。

デザイナーから画家に転身、僕が自分の本を紹介してくれ(朝日新聞)と送本して頼んだら、時間が過ぎていると断って来た横尾忠則氏。最近、週刊新潮に自分の想いを連載をしていて、たまに読んだら、「意味もなく毎日、絵を描いている」と。歴史へのアンガージュマンは自分でも分らないようだ。

一方、横山大観関東大震災(1923/大正12/9/1)の直前と直後に2度に渡って墨絵の絵巻物「生々流転」を描いたようだ。特に後からのは55.3×4070㎝、つまり40mの気違い的な長さだ。(日経新聞2023/8/13)。明らかに自分の記録を残そうとしたものだ。

こういうことを見ていると、歴史性から見て残すに足るような仕事なら、それだけの意味があるのかも知れないが、皆がそんなことをしたら、地球はゴミの山になっていく可能性がある。

モーツアルトの「レクイエム」を聞いていると、これは残ってほしいと思うし、地球が滅ばない限り、絶対残したいと思う。

本当に価値のあるものは何だ? 「モナ・リザ」も燃えてしまったらおしまいだ。

特に「作品」など残さなくても、今、大河ドラマで人気の徳川家康はどうだ。さすがに300年ほどの歴史を生み出した志士としては残るだろう。

こういうことを考えていると、なまじの事はやる必要がないと思わずにはいられない。