自分の仕事をアーツ史に残す手立て

自己の仕事が、歴史のある時点を代表する、という考えが許されれば、その歴史を一貫して支えて来た仕事の理念があってほしい。

しかし、現代アートの解体の後と、デザインの拡散のの後に立ってみると、言い訳や小賢しい理屈を設けることが出来やすい時代である反面、それだけに正直に言えば、自分が何か時代に掛かる強大な理念を携えて格闘してきたという訳ではない。

やってきたこと、それはモノや空間の美であり、心地よさであり、ある意味での造形的な新しさであるが、モノそのものや素材への想いや地球環境への配慮ではなかったし、まして経済力などではなかった。

そう言ってしまえば簡単だが、それらをまったく無視していたという訳ではない。あくまで自己の精神的な支柱の話なのだ。

その言い方で押し切ってしまえば、昨今のコロナ禍を経てグローバリゼーションの限界が大きく語られているが、僕の創造への本当の関心事は社会システムでも経済システムでも無かった、と言えるのかも。

たかが作品、されど作品。それは個人から見たアートの歴史の過程を示すからなのである。その意味では、やった仕事は作品というよりは歴史の証言とでもいうべきものだろうか。

これは亀倉優策が言っていた「たかがデザイン、されどデザイン」と結果的に同じ言い方である。

 

この考えを再浮上させたのが、この8月3日から行っていた軽井沢でのある覚悟に依っている。それは既存の旧別荘をリノベしようかと迷っていたことへの決別の覚悟による。自分作品として新築しようと考えを変えたのだ。基本的には居住だけの住まいだが、そこに仕事の歴史を紹介する「隠れギャラリー」を埋め込むアイデアを考えているのだ。

こうなると、最初に述べた自己のクリエイティブ史を支える理念があれば、と思うようになったのだ。