コロナ禍で考える建築家の祖型

「最近の想い」として、今年の5月1日に、港地域会(日本建築家協会)のメンバーに送っていた原稿を、多少修正して転載します。                                         

 

H,リードが教えた「芸術の草の根」

我々は本業の設計に関わるのは当然として、その上で一層のコネの広がりとか、事業システムの拡大とか、ブランド化、更には地域貢献活動などという「仕事をしてきた」けれど、実は、アート・メンタルを持つ自分を考えてみれば、利益を増やすのが直接の目的ではなかった。その結果、下手な「社会活動」が裏目に出て、才能を持っていても蓄財もできず、日々をフリーターに近い業務に追いやられて来た。

考えてみても、現状では「社会的に公的な評価」はついて来ていないとしか思えない。というより、どんどん軽視されてきた、という想いがぬぐい切れない。

思い返せば、高度成長期には建築家も建設業も輝きを放っていたが、高齢化してもその頃の思い出に引きつられ、創ることの本質を忘れ、残滓を追い求めるようなことはもう止めなければ。

その想いはさておいて、このパンデミックで世界は資本主義、あるいは独裁型経済の拡張路線に行き詰ったように見える。一方で、建築家に期待などされていないのは、我々の理念や社会のシステムが、まだ古い体質のままだからかもしれないし、そもそもこの現実を覆いつくす経済中心の理念向きではないから、なのかもしれない。

でも、物質的にしても金融経済にしても、人の移動にしても、ここまで膨張し拡散してこそ、改めて人間とは何か、何のために生きているのか、という原初問題に逢着するよい機会になったように思う。つまり建築家が考えてきた、住まいから発する感性としての生きる意味を、根本から問う良い機会になったようにも感じられる。

その意味ではこの激変の時代に在っては既に、いささか古くはなったが例えば、あの1940年代の、機械と産業経済の拡大発展は見えていても、まだ人間の内面を意識しつつ現代社会の本質を予見しえた時代の書には、改めて、「歴史の中における現在」を反省し、思い出し、参考になることがある。今、改めて読んでいるH,リードの「芸術の草の根」(岩波現代叢書)などもそれだろう。

いくつか、言葉を拾ってみることにしたい。

 

  • 「知性に含まれているもので何ひとつとして、前もって感覚を通さなかったものはない」
  • 「われわれは、文明が合理性や機能主義のみに基礎を置くものだという風な、誤った推定をしないようにせねばならぬ。文明は人間の心意にではなくて感覚に基礎を置いているのであって、我々が感覚を活用し教育しうるのでなければ、人間の進歩どころか人間の生存のための生物学的諸条件さえも確保するわけにはゆかぬのである」
  • 「すべての児童の5才から15才までの間に、物質を建設的に工夫する仕事をさせながら感覚を訓練してやることが出来たならば、(中略)彼ら児童たちの行く末について少しも心配する必要はなくなっているのだ」
  • 「私はすべての人が芸術家であるべきだということを、つねづね提唱している」
  • 「機能とは、詮じ詰めれば常に人間の必要と関連している筈のものだ。ところで人間の必要は、常に自然的環境と関連している筈だ。芸術を自然から、機械をその環境から、人為的に引き離すことはできるものではない」
  • 「自然への年期奉公を務める人たちのみが、機械からも信頼されうるのである」  (増野正衛訳)