映画「楊暉楼」について

記録に残しておきたかったことがある。

映画「楊暉楼」を知っている人は沢山いるだろうか。

去る12月11日のBS日テレで、夕方の6時から9時まで放映していたのを偶然、途中から見て引き込まれた。宮尾登美子原作、五社英雄監督の1983年東映俳優座映画である。

何と言おうか、心の隅にある忘れかけた時代の、それも妙にリアリティを感じる映画だった。五社監督は素晴らしい。

この映画が上映された当時、僕は42才だった。ミラノの事務所はまだ持っていて、家内を連れて、教わった芸大教授の澄田先生らとICSID Milano(世界インダストリアルデザイン会議のミラノ大会) に参加していた年だったから、こんな映画を見ている余裕が無かったのかも知れない。

緒方拳と池上季実子が主役でぴったり。本も読んでいないし、映画も途中だから、いつの時代か、とか気になって調べてみた。ウイキペディアでの検索で申し訳ないが、評論家の小藤田千栄子佐藤忠男は(途中からの引用)、こう言ってている。

まず、小藤田は、

「…それがヤクザ臭が強すぎ、あえていえば、膨らまし過ぎたゆえに、省略法を効かさざるを得ず、その結果、分かりにくさに繋がってしまったのである。それに原作よりも大向うを狙いすぎ、結果として映画そのもの品性に関わってきている気がするのである。桃若を中心とした女性群像劇に絞り込むことは出来なかったのだろうか。ちょっと惜しかった気がする。映画『陽暉楼』のメディアとしての圧勝は、池上季実子を中心に、芸者さんたちがずらりと揃って、お座敷に向かうシーンである。この華やかさは、なかなか文学では表現出来ない。この華やかさの表と裏を、女性群像劇一本で見たかったと思う。ついでながら、この映画のコピー「女は競ってこそ華、負けて堕ちれば泥」には引っかかった。一見人目をひくことは確かだけれど、これはあくまでも男の側の論理であり、女を見せもの視する、差別に非常に近い論理である」などと評している[

、佐藤忠男は、「『陽暉楼』はかつて任侠映画で一時代を築いた東映京都が、その技術と美学を久しぶりに存分に活かした豪奢な映画である。任侠映画というのは現代の歌舞伎と言っていいような独特の様式を持つものだったが、徹頭徹尾、男のヒロイズムだけで出来ていて、結局、ポルノと同様、女性の観客を映画館からはじき出す作用を果たしてしまった…」

なるほど。池上季実子と居並ぶ芸妓たちが異常に美しく壮観だったし、女同士の喧嘩が圧巻。任侠といい、芸妓たちの色っぽさといい、明らかに男好みの映画だが、昭和初期の設定が妙に、自分の少年時代のどこかに潜んでいるものを意識させた。

終戦直後、小田原に引っ越してから、近くにある海辺の大きな旅館で壮麗な宴会のようなものがよく行われていて、芸妓や提灯の列などを外から眺めていた居たのだ。ある年の正月などは父親の希望で、母が日本髪のかつらをかぶっていたようなこともあった。どれも戦後、間もなくのことであり、いつの間にか旅館も消えていた。

かと言って、今でも、京都に芸者を抱えているようだ、という近縁の人も居るが、残念ながらどういう訳か、日本髪と和服にそれほど関心がない。あくまで映画がもたらした艶めかしさだ。