個人能力の評価とは

●部分以降、数行追加、書き換え:7/28

 

これを言うと、負け犬の遠吠えとか、誇大妄想狂とか言われそうなので言いにくい。でも、一度は言っておいても構わないと思い、記述しておく。

芸術家の評価は、時代環境、教育・家庭環境、運、読みと策略の入り混じったもので、本当に評価に値するかどうかは、本来的には誰も決められないものだと思うようになった。

残念というべきか、これらのすべてにうまく乗った者が「時代を代表する芸術家」などと言われるようになる。もちろん、持ちうる基本的な芸術的才能は準備されているという条件だが。

解りやすい話で言えば、例えばレオナルド・ダ・ヴィンチの時代ともなれば、同じような家庭、教育、就業を経るような作家はほとんど絶無だろうが、育ちの経過はさておいて、同じような画才と時代意識持っていた芸術家が他に全くいなかったとは思いたくない。

当時のヨーロッパのある村で、周囲が認める画才の少年がいたと思うのは自然のことだろう。その少年が後世に残らなかったのは、例えば、親に教育環境が無くカネもなく、絵を諦めざるを得なかったり、感染症に罹り早没したり、良いパトロンに巡り合えなかったり、といったいろいろの事情が考えられる。すなわち読みと策略以前に、時代と家庭、運によって人生を決められたのである。

勿論、これらの網を探り寄せる才能があってこそ、ダ・ヴィンチもいるわけだが、情報過剰の現代にあって、その網のたぐり寄せは多様化を極め、芸術の評価軸も定まらない。

 

元々、「デザイン」は近代産業の進展に伴って、芸術の考え方の拡散と共に、美の価値を産業に活かそうとして展開してきたもので、その根源はやはり「美意識」や「新しさ」にある。すると「デザイン」の展開は、日常商品や空間を表現対象にしたところが新しいので、●作家の創意を問題にするのでなく、商品や空間の「出てきた表現」や「その新しさや、結果としてのアイデア」だけを「作品」ということにしてしまうと、市場のニーズとか、技術的イノベーションなどに理由の多く頼ることになり、いくらでも、個人の評価に至らなくてもよくなる。その意味では「デザイン」は、伝統的な個人の才能だけを評価対象にする芸術の価値評価からどんどん離れてきた。

現代の美術評論家のほとんどが、あくまで「作品主義」であることによって、拡散後の「デザイン評価」について、評価軸を見失っていると言えるのではないか。また、現代的意味を知って「デザイン」を語る者は、経営や科学に吸収されて来た。

「芸術家の評価は、時代環境、教育・家庭環境、運、読みと策略の入り混じったもので、本当に評価に値するかどうかは、本来的には誰も決められないものだと思うようになった」と最初に書いたが、現代の「デザイン」評価も、現実的にこの言い回しの中に納まってくるように思う。

(この論考は、時間を掛けて継続させる予定)